2010年8月2日月曜日

Where were you in '62?

映画をみました。
踊る!ではなく、むかーしむかしの。


ジョージ・ルーカスの二作目、「アメリカン・グラフィティー」(’73)


60年代シスコの高校生が、卒業しそれぞれの道へ旅立とうとする前夜の話。

とにかくよかった。


東部の大学に行くべきか?
あの娘はだれ?
もう終りにしよう。


モテモテでナヨナヨの男。
ツンツンで素直になれない女。
純情でハメ外したい男。
微笑んですれ違う女。
不細工で裏目に出る男。
浮いてても見据えてる女。
硬派で優しい男。
思ったことが上手く言えない女。


少女が女に、少年が男になろうとしてるその狭間、そして訪れるそれぞれのハッピーエンド。



日本じゃこんな高校生活は送れないけど、気持ちは地球の反対側もおんなじなんだ!

甘酸っぱい、けどちょっとほろ苦い。レモンスカッシュムービー。



今ならTSUTAYAで80円です☆






staff:いわた

2010年8月1日日曜日

穴のあいた長靴より使えない話

 がつけば八月。梅雨も空け、ワールドカップも過ぎ去り、球児の熱い夏が訪れようとしています。同窓会から早八ヶ月、元気に、そしてちょっとやんちゃに、出来る範囲で企画を仕掛けてきました。しかし最近は後半戦をキックオフしたものの、特にパスも出さず、それぞれのピッチで頑張っているみんなを、このブログはひたすら見守っていました。何か特にお知らせすることなどありゃしませんが、久々に書き込んでみます。



 の中には集団というものがあります。なにか特定の共通項でくくられた多数の存在をそう呼ぶことが多いようです。ですが人は自分の存在を意識し、証明し、認めたくて、自分は他人とは違う、正確には「ここは周りの人たちとはちょっと違うよ〜」という部分を持ちたいと潜在的に思っている節があると思います。これを個性やその人のカラーというのかもしれません。
 日プライベートで「大反省会」という極めて大雑把な名の下に飲み会が開かれ、それこそそこそこの集団で様々な人たちが集まりました。その中で自分のできる範囲で触れ合ってみると、みなさんとてもカラーが濃い人たちでした。でも、一番感じたのは「似てるんだけど違う」こんな感情でした。

 は戻りますが、自己と他者の違いで自分が成り立っている/そうでありたい、という気持ちはそれぞれあると言いましたが、その気持ちだけを持ち続けて表面化していくと、特にこの地方では浮いてしまう=援助も情も消滅してしまう傾向があります。

 団か、個人か。その選択に常に悩んで来た僕は、「大反省会」を終えて、家で反省していてふと思いました。「マジョリティーの中のマイノリティーになればよいだけの話?」と。出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打ちようがない。とは良く言ったものですが、世の中は集団で動いています。その集団を逸脱した時の覚悟よりも、小集団の中で出たか出ないか分からないくらいな杭、もっと言うと「これって杭じゃねーじゃん!」という存在になれはよいのだと勝手に悟りました。

 校の数学の授業で、先生がふと放った一言で今でも良く思い出す言葉があります。「選択するとは、他方を捨てることだ。」とってもシンプルで、様々なことに当てはまり、残酷さえ聴こえる言葉です。例えていうならば、時間で考えてみれば分かりやすいかもしれません。これをやってる時間は、あれをやっていたかもしれないこの時間を捨ててる。そう考えると、人は選択の連続で生きていると言えます。毎日、毎時間、毎瞬、どうすればいいか意識/無意識に選択して一日が終わっていきます。

 杭になるにもこの選択能力が求められます。この考えでいくと、出ることは出ないことを捨てること。ですが、この選択の勇気は、すんなり出るものではありません。だから、「マジョリティーの中のマイノリティーになればよい」なのです。そして、杭やなのか棒なのか、唯一無二の存在としてそこに在って、実はみんなそうで、マイノリティーでマジョリティーを形成し、杭がでる方向なんかも定めないで、もう放射線状にそれぞれが顔をだして、遠目から見るとそれは綺麗な円形をしていて、近づいてみると意外に歪な形をしている。そんな輪の中に僕も入っていたい。そう思ったのでした。



staff:いわた